現代社会は、昔に比べて日常が目まぐるしく過ぎ、せかせかしている印象を受けます。
というのも、ニュースでよく都会における通勤電車の映像や渋滞した道路の映像を目にしているのもそう思う要因のひとつとなっているでしょう。
また、会社の出勤や仕事の納期など、常に時間に追われて生活している人も多いのではないでしょうか?
私も僧侶となる前というのは時間に追われ、心に一息入れる暇もなく生活していました。
ですが、僧侶となるべく本山に修行に行き、あらゆるしがらみと関係を断ち生活することで、ストレスも感じづらくなり、他者を思いやる余裕すら出てきました。
ですので、心にゆとりを持つことで人間性すら変わるのではと私は考えています。
この記事では、日々心に一息つける余裕がない人に向け、私が体験した経験をもとにおすすめの心にゆとりを持たせる方法を紹介していきます。
心にゆとりを持つ方法
社会人となり仕事を始めてから、本当の意味で心を休ませたことはありますでしょうか?
ここで言う本当の意味というのはどういうことかというと、心を休める時間を意図的に作っているかということです。
休みの日に家族と出掛けたり、友達と遊んだりと時間を使うこともあると思います。
これは普段の忙しい毎日と変わり、他者と関わることで心の活力にはなりますが、心を休めるという観点から言うと少し違う気がします。
では、いったいどうすれば心を休ませ心にゆとりを持たせることができるのか紹介していきます。
私が考える、心にゆとりを持たせる方法は2つあります。
1つ目は、いつもより少し早く起きて、ご先祖さまに手を合わすことです
これは、意外にできる機会というのはなく、作ろうと思い行動しなければこういう時間というのは作れないでしょう。
まず大切なのは、いつもより早く起きるということです。
早朝というのは昼間と違い静まり返っており、なんとも落ち着いた気持ちになるものです。
そんな荘厳な雰囲気の朝に、仏壇やお墓に手を合わせましょう。
これはやってみると分かりますが、驚くほど無心になれて、心が落ち着くので是非試してください。
2つ目は、お寺や神社のような神聖な場所でお祈りや瞑想をすることです。
お寺や神社のような場所は、いつもの現実と切り離された荘厳な空間にいるような気持ちにさせられるものです。
そんな神聖な場所で、お祈りやできるところでは瞑想体験などをすることで、日々の悩みすらちっぽけに思え、心を休ませるという観点でみても無心になり邪なことは考えないため、終わったころには心の違いに気づくことでしょう。
時間が作れたら是非試してみてください。
私の経験から言えること
実は、上記のこの二つの方法は私が僧侶となる前、本山で修行していた時に私が実際に感じた、心にゆとりが持てる時の体験をもとにあげさせていただきました。
本山の修行は朝が早く、一日を通して仏さまにお仕えし手を合わせます。
もちろん最初は、朝早く起きるのが辛く心にゆとりを持つ余裕なんてありませんでしたが、これを続けるうちに段々と心が穏やかになっていることに気づきました。
そして、いつしか余計なことは考えず無心になれる時間として、日々の生活習慣としてなくてはならないものとなっていったのです。
また、本堂での瞑想も心にゆとりを持つうえで大切な時間でした。
瞑想とは、ご存じの通り心に余計なことを考えず、無心になり自己を高めます。
これは言うまでもなく終わった後には心が落ち着き、心休まるものです。
こうして心を休め、ゆとりを持たせることで私は修行の日々で感じたストレスも緩和し、何より他者に対しても配慮できる余裕のようなものまででてきました。
今思えば、辛く苦しい修行を難なく乗り越えることができたのも心にゆとりがあったからこそだと実感します。
お寺に行ってみよう
とはいえ、修行というのは誰しも行えるわけでなく、一般の方ではまず体験できないでしょう。
ですが、一般の方でもお寺や神社に行き、場所によっては修行体験やお祈りといったことはできます。
普段なかなかやる気にエンジンが掛からない方でも、そういった場所に行くと真剣になれるものであります。
心に余裕が持てず、どうしようもない時は是非お寺や神社に立ち寄ってみてください。
必ず、心に何かしらの変化が起きることと思います。
まとめ
日々生活していてなかなか心にゆとりを持つ余裕というのはないかもしれません。
ですが、私が紹介した方法を空いた時間に取り入れるだけで、驚くほど心が軽くなり、日常の辛く感じていたことに対しても変化が生じてくることでしょう。
この方法によって、私自身も辛い修行の日々を乗り越えましたし、他者を想い行動できる人間になれるよう欠かさず日常に取り入れています。
日々心に一息つける余裕がない人は特に、心にゆとりを持つための方法を実践してみてはいかがでしょう。