「形見わけ」について僧侶の視点で解説!志を受け継ぐ気持ちが大切!?

人が亡くなると遺族は、亡くなった故人の遺品を分配して相続します。

そして、故人の思い出として常時携帯したり、または大切に保管していることと思います。

これが一般的な「形見分け」のイメージするところでしょう。

しかし、それは形式的なもので本来の意味を知っている方は案外少ないかもしれません。

そして、私自身僧侶として先代の住職より形見分けを受ける以前、生前の住職よりいわれた言葉があります。

それは「私が死んだら衣鉢をつぐものとして精進しなさい」という言葉でした。

この言葉の真意について。また、僧侶である私が思う「形見分け」について考えていきたいと思います。

形見分けの本来の意味

「形見分け」は、亡くなられた方が普段使っていた品物や来ていた着物などを身近な親しい人に遺品として分けてあげることをいい、葬儀が終わってしばらくした後に行います。

「形見分け」は、いただいた品を手にするたびに、亡くなられた方のことを思い出して、その遺徳をしのび、、生前に行ってきた立派な行いをまねて、少しでも善行を積むように努めようとする心をおこさせることが本来の意味するところであるそうです。

昔は、着物に霊が宿ると考えられていて、着物の形見分けは重要な儀式の一つだったようです。

実際、そこまで考えて相続を受ける人はどれくらいいるでしょうか。

むしろ、相続の品を巡って遺族内で争うといった話も耳にしますが、これは本来の意味からするとかなりかけはなれている気がします。

残した遺品で遺族が争う…

亡くなった故人はどう感じるでしょう。

最近では、終活などといい亡くなる以前に各種手続きや手配を済ませ、残された遺族に迷惑をかけないようにするという言葉がでてきました。

相続争いを避けるため、終活を進めようとする気持ちもわかる気がします。

形見分けをすることで徳を積める?

形見分けは、亡き人の持ち物を分かち与えることで、布施の功徳を積むことができます。

その形見をもらった人も同じように、自分の持っている品物を他に分かち与えようとする心をおこさせます。

さらに、物に対する執着心、貪欲の心を少しでもなくすようにするために行うのが「形見分け」なんだそうです。

ところが、川柳で「泣きながらよい品えらぶ形見分け」といわれるように、欲がむき出しになったみにくい姿を見せ合う光景がままあるのは悲しいことです。

僧侶視点で形見分けを考える

僧侶である私が考える形見分けとは?

私が先代から形見分けを受ける以前に言われた「私が死んだら衣鉢をつぐものとして精進しなさい」という言葉について深く考えさせられました。

そもそも「衣鉢をつぐ」というのはお坊さんの間で、お師匠さまの衣を遺品としていただいたときに師匠の教えを受け継ぎ、守っていくという誓いをあらたにするという意味だそうです。

先代は、なぜ生前にこの言葉を言ったのか当時深く考えさせられました。

私の解釈は、教えを含め僧侶としての姿を学び、死後それをしっかり引き継いでいきなさいと言われたのだと今では思うところではあります。

ですので、私も先代から遺品として衣をいただいた際は、身が引き締まる思いとともに先代のように立派な僧侶になるという意気込みのもと形見をいただきました。

お坊さんの衣は、先代から代々受け継がれてきたものです。

それをまた次の世代に引き継ぐのが、僧侶となった私の使命でもあります。

結論としては、僧侶として私は形見分けを通し、先代の志を受け継ぎ、寺を守っていく上で先人の姿を心の頼りに生きていくことが大切であると考えています。

先代のように、僧侶のあるべき姿を次代に見せ、志とともに引き継いでもらえれば最高ですね。

まとめ

私は、形見分けは単なる財産分与ではないと思います

また、残した財産がもとで遺族が争ったとしたら、亡くなった故人はたまったものじゃないでしょう。

むしろ、本来の形見分けの意味からはずれ、財産分与という認識だからこそ、そういった問題も起こってしまうのではないでしょうか。

いただいた故人の志を受け、どう受け取るかはひとそれぞれです。

僧侶としての私は、先代の志を継げるよう努力するべきと考えます。

しかし、子供は親の生き方を見て育っていきます。
おそろしいほど親子のしぐさや考え方は似てくるものです。

みなさんも我が子に与える形見は、どんなものをのこしたらよいか考えたことはあるでしょうか?

また、思い出してもらったときに恥ずかしくない態度を日々とれているか、今一度考えたいものです。

タイトルとURLをコピーしました